■「全員集合派orひょうきん族?」
華の都大東京を闊歩し四半世紀超。
同世代と話が盛り上がると、
決まって話題のベクトルは
あの軸へ振られる。
「岸君。昔、土曜日の夜は、ドリフの全員集合観てた?
それとも、オレたちひょうきん族観てた?」
私の答えは一つ
「ひょうきん族(フジ)観てたよ。
…だって…TBS映らなかったから、山形県は」
決まって相手は悪い事聞いたなって俯き
話は途切れる。
もう、今まで何度何度何度も繰り返された掛け合いだ。
■「山形県民TBS complex」
40歳以上の山形県民は、TBScomplexである。
全員集合もベストテンも具志堅用高もスクールウォーズも
観られなかった。
映ったのは3日遅れの
「世界まるごとHowマッチ」(大橋巨泉、ビートたけし)
くらい。
ドリフは2ヶ月に1度放送される「ドリフの大爆笑」(フジ)
■「ドリフが町にやって来る!」
時は…昭和57年(1982)
TBSが映らない米沢にドリフがやって来る!
「全員集合」の公開収録生放送が行われるのだ。
同級生はこぞって会場へ!
そりゃ物凄い仕掛けで、パトカーがステージを
跳びはねたらしいー。
私?私の両親は反ドリフ勢力。
人生唯一のチャンスを逃してしまう。
■「初TBS」
TBSが観たい!
それは子供達だけの願いではなかった。
電気マニアの大人達の中には独自にアンテナを改良し、
お隣の宮城県や福島県のTVを受信する者が現れる。
1988年(昭和63)米沢にケーブルTV開局。
このチャンネルの売りが、宮城県のTV放送が観られる
というもの。これは=TBSが観られるという事。
翌89年冬、家もこのケーブル局の会員になり、
私は東北放送(宮城県)にてTBSを初めて視聴した。
初めて観た番組「ザ ベストテン」(黒柳徹子)
■「テレビユー山形開局」
そんなTV混乱期の中、
平成元年(1989)10月、待ちに待った
TBS系列放送局、テレビユー山形開局。
無料で堂々と山形県民は、TBSを観られる様になる。
■「とんぼ/長渕剛Live1990山形」
1990年(平成2)大ヒットドラマ「とんぼ」(長渕剛)が
2年遅れで放送開始。
放送時間は17時~。
学校帰り屯っていた友人宅で、皆んなで
膝突き合わせ、観た。
画面に釘づけになる中、我々は主役の英二に同化し、
ハスに構え、煙草を咥え、上見遣いにドラマの中の
敵対勢力を睨む。
特に、私は完全に洗脳され、停学とも相なり
自慢のリーゼントを坊主頭。
細いサングラスを購入し、登校時は背筋を猫背ぎみに
歩いた。
話しかけられたら一拍置き、低音でボソボソと話し。
これに合わせたかの様に、全盛期長渕剛は
1990年11月24日(金)山形スポーツセンターにてLive、
会場4000人超満員札止め。
高校2年生の私は先輩の車箱乗りで来場!
会場周辺は、長渕に成り切った若者達と、
仙台や山形の暴走族や旧車會も集まり、大混乱。
Liveはノリにのった長渕剛がdanceまで披露し、
アンコールでも弾き語り30分以上披露。
見事な声量と歌の上手さと、ギターの力強さに
圧倒され続けた。
長渕剛は嫌いなのに、間違いなく今までみたLiveで
3本指に入る素晴らしいShowだった。
■「近未来」
現在はAmazonPrimeやTVer等配信系全盛。
世界から地方放送まで視聴出来る。
仕事だってonlineで海外とやり合える。
こんな私ですら、一時期海外とonlineで繋がっていた。
これからは、円安もあり生産工場を地方に持つ者が強い。
そこから海外や国内へサプライチェーンを遂行。
しかし、エネルギー資源は高騰。
鍵は、最早、原油ではなく、電気?いや水素か?
褐炭入手先は、豪州?
ん~、だと、この狭っ苦しい大都会で03圏内だんて
高い賃料払う時代はダサい?
都心の土地値も賃料も右肩下がりは止められないし、
円安利用されて、外国人大富豪にドーナッツ中央は
買いまくられて…。
「価値を何処に見出すか!」
「座標軸を制する物が、人生を制す!」
人生に敗北はある。
しかし、負け続ける必要なんて無い。
物が無いなら有る所を探せ。
有ったら、躊躇せず染まる。
あの日の山形県民の様に。