8月のカモメたち….喜多嶋隆

人間は生物である。
空気を吸い、心臓を動かし、血を循環させ、食事を摂る。
しかし、それよりも大きく人生を膨らませるのは「心」

でも長い人生、大切な心を、時に狂わせる事もあります。

■1995年~港~

1995年…
あの日の僕は、生きる希望が見えず、水彩画で描かれた冬空のような、
心でした。

折角入った芸能事務所の契約更新を得ず、人前で歌うも実力のなさを知り、
食う為、港で働きだしていました。

永遠の海の底か、永久の夜の闇かも解らなくなるようなコンテナ車の中で、
心を捨て、重労働に汗を流し続ける日々。

でも、疲れたからといって、煙草と汗の染み込んだ休憩室で
川の字のような昼寝は出来ず、
僕は、お台場をマラソンし、港の倉庫の上、
弁当箱つっつきながら、海をみつめていました。

「波って、何処から来て、何処へ帰るのかな?」
…なんだか、俺と似ているなぁ…

そして、チャイムと共に、
奴隷のように、またこの身を、コンテナ車に預けるばかり…。

でも、人間の心は面白いもので、
しんどい身体に反比例するかのように、
港で働くようになってから、僕は活字に目覚めました。
そして、あの本と出逢うのです。

「8月のカモメたち」
喜多嶋隆

手にとった時に思ったのは
…海かぁ…港湾とまた違った海があるんだろうな…
…もう秋か…虚しいなぁ…

正直、彼女もいなかったからこそ、
潮の香りと、甘酸っぱさに、僕の舵は一気にきられたのかもしれません。

■8月のカモメ達(喜多嶋隆)…あらすじ…

薊(主人公)には両親がいない。
お祖父さんとお祖母さんに育ててもらいました。
でも、決して内向きではなく….地元「葉山」を愛し、海と友と
共に育つ。

薊が18歳の時…祖父は亡くなる。哀しみの中知ったのは、相続税。
薊は相続税を払うため、一人海に潜り、密漁を…。
が、それだけでは足りず、
夕陽の当たる海辺のバー〈サンセット〉でアルバイトを始める。

そこには、過去を語らぬ店長の浩一がいた。
薊は、いつしか浩一に魅かれる中、
彼がかつての新鋭作家だと知る。

薊は初めての恋に落ちていた。
はじめて心が燃え、身を捧げ、温もりを知った。
そんな中、浩一は薊の文才に気がつく。

浩一のコーチのもと、ある出版社の新人コンテストへ向けて、
書きだした。
薊と浩一はひと夏を過ごしながら、波に逆らわずに、
共に季節を泳ぐ。

が、ある日。
人生の儚さを、薊は身をもって知る。

….人生で一番濃密で、一番短い夏。
薊はその夏失った大切な命を描こうと誓った。
この小説は、薊の切実な想いを書き綴った、青春ロマンである。

■森戸海岸

僕自身は、山形県米沢市という雪国の盆地で生まれ、
およそ海というものを知らず、生きていました。
が、この本と出逢い、海に憧れ、葉山という町が心に同化しだし、
1996年から現在まで、毎年通ってます。

場所は、森戸海岸。
そう、あの石原裕次郎さんの塔が見え、森戸神社に守られた小さな浜辺。

逗子駅から歩き、なぎさ橋を越えて、くねりくねる丘を越える。
と、細い道をバスとバスが笑顔ですれ違い、
潮のかおりに引きこまれるように、葉山へ辿りつく。

元町商店街を散策していると、セミのメロディ。
僕は路地へと入り、松林を越える。
目の前には…柔らかい青が…。

頬を撫でる南風。
片手でハットが飛ばないように抑えながら、石ころさがし、
よさげな場所にシートを敷き、石ころで固定。

泳いで焼いて、潮が満ちてきたら、
肩にバスタオルかけ、
遠くに見える江ノ島や富士山方面見つめながら、ビールを飲む…。

そして、パイナップルが西へ帰る頃、答えのない懐かしさに
僕は満たされる。

それは、
友人が離婚に悩み、心を癒す為、毎週森戸に通った時も、
曲創りに悩み、ギターかかえて流木にまたがり弾いていた時も、
逗子からの途中道、彼女と大喧嘩になり、虚しさだけを感じた時も
…同じ…だった。

正直、僕は決してまともな人間ではありません。
ただ、ひとつだけ確実に言えるのは、人様との出会いと同じくらい、
「小説」と出逢うことが大切だという事。

僕は、この冬、素敵なプレゼントを頂きました。
それは、この本との出会いと、人様との出会いの二重奏のお陰です。

ありがたい事に、この「8月のカモメたち」の著者である、
喜多嶋隆先生の新書に、宛名入りのサイン付きの品を、
頂いたのです!!
喜多嶋サイン

感謝であり、感激であり、より頑張らねばという強い闘志が
わいてきます!!
本当にありがとうございます!!

….葉山町森戸….を、心から鳴らし、ひと作品創らなければ!!
2015年、本格始動。