我が古里「米沢牛」は最高!!
本日は、米沢牛は勿論、和牛の歴史、そして、「米沢牛」(岸哲蔵)の歌を
紹介させて下さい。
■米沢牛の歴史と歌~和牛の歴史~
日本では、明治時代以降、牛を食べるようになったと思われがちですが、
2000年前から肉を食べる文化が。
貝塚からは、イノシシや鹿を中心に、牛の骨も。
法律では、仏教伝来の中、675年「肉食禁止令」
714年には「牛、馬を食べた者は百叩き」という罰則が。
理由は仏教の教えだけではなく、農業等での労働の中、
牛や馬を必要としたからです。
しかし、物事には表があれば裏が!
あの宣教師フロイトは「表向きは肉など食ってないと言っているが、裏では結構食べている!」
と暴露!
実際、江戸時代に入ると「獣肉屋」が出来て、
イノシシを中心に「滋養強壮」の「薬屋」という形で広まります。
その裏では、ごく少量の牛肉も扱われて。
庶民を飛び越えた階級では、献上品として「牛肉」を贈る事が多く、
この流れがあり、明治時代~庶民も牛肉へのシフトがスムーズに図れました。
1869年(明治2年)築地にて半官半民の「牛馬会社」で設立(主に販売)
1870年(明治3年)福沢諭吉が「肉食之説」を発行。
明治時代「文明開化」の中「すき焼き」が流行する。
■米沢牛の歴史と歌~チャールズヘンリーダラス~
英国人チャールズヘンリーダラス(東インド会社)は、貿易商として日本の土を踏む。
まもなくフリーメーソン横浜支部長に就任し各種情報収集に敏腕をふるう。
明治3年5月大学南校(東京大学 理.法.文の源)の教師に雇用も、
攘夷壮士に襲撃され重傷を負う。
明治4年10月、静養を兼ねて米沢にある興譲館(米沢興譲館高校)にて英語教師に。
米沢の町にも溶け込み、英語や経済、西洋文化、スポーツを伝える。
明治8年春、体調を戻したダラスは米沢を去り横浜へ戻る。
その時、「米沢牛」(飯豊町産)を一頭連れ、東京横浜にて米沢牛を紹介し広める。
使用人のコックには家具や資金を与え、米沢に「牛万」という牛肉屋を開かせる。
■米沢牛の歴史と歌~米沢牛の美味の理由~
日本三大牛「米沢牛」は他の和牛よりも「噛みごたえがあり、甘い」
(甘いとは、噛んだ、程好く脂が広がる感覚)
その美味は「気候」による部分が大きい。
米沢地方は雪深く、町中でも1mを超す豪雪地帯。
冬場は、マイナス20度近くまで冷え込み、
逆に「盆地」という事で、夏には35度を超す事も。
その差、「55度」
これにより牛は肉がしまりサシがのり、最高級の「霜降り」になるのです。
何より、この環境の中、生産農家が愛情注ぎ育てあげ、
更に「米沢牛」の美味は高まるのです!!
そして、2010年9月、この「米沢牛」を歌った曲が発売。
■米沢牛(歌) 岸哲蔵(作詞/作曲/歌 岸哲蔵 編曲/池田健司)
愛情注いだ米沢牛 歴史誇り 胸に抱いて 受け継ぐ 今日から明日へ…
吹きつける粉雪 厳しい夏を凌ぎ凌いで
育った牛は 心までとろけそうな 柔らか霜降り
愛情注いだ米沢牛 清い水と 澄んだ空気 緑のこの山並み
歴史紐解けば チャールズヘンリーダラス辿りつく
遥かエゲレスから 海を越えてこの町 牛に惚れ込んだ
愛情注いだ米沢牛 西へ東 南 北へ この味伝えたよ
愛情注いだ米沢牛 歴史誇り 胸に抱いて 受け継ぐ 今日から明日へ…
愛情注いだ牛…
https://youtu.be/9TO2l1miTTE
■米沢牛の歴史と歌~まとめ~
…何事にも、始まりがあります。
確かに、全ての面において、現代の技術は最先端をいっているのかもしれない。
が、壁にぶつかった時には、歴史を知る事も必要なのでは。
昔には昔の環境ならではの最先端があり、現代では忘れ去られた技術が眠っているかもしれません。
「温故知新」…時には「歴史」を尋ねる旅に…