■「タバコとの闘い」
ぐっすり眠った….時計を見ると、まだ4時かぁ。
思えば、昨夜は、おちるように枕に埋もれていった。
もう2度寝は出来そうにない。
むしろ、何かにチャレンジしたいような、
健全なる目覚めだった。
隣でスヤスヤ眠る妻を起こさぬ様、カーテンの端を摘み、
覗き込むと、白みだした空の奥から、
静やかに朱の微粒子達が浮かんでくる。
少し窓を開けてみた。リースカーテンがささやかに踊る。
それがスイッチだったのか….。
私は顔も洗わず、黒のスリムジーンズに履き替え、
水色の長袖のパーカーを羽織り、
バスケットシューズを結んでいた。
何かに導かれるかのように、靴底にアスファルトを
感じて。
世田谷の住宅街は、静かだ。
人口が90万人を超えたというのに、嘘の様に無口だ。
時より聞こえてくるのは、新聞配達のカブの
アクセル音程度。
コンクリートに疲れていた本能は、新緑の香りを
嗅ぎたくなり、足もそれに同調し、進みだす。
新緑香る水道道から、駒沢給水場へ向かうとしよう。
駒沢給水場は、世田谷区の地域風景資産に
選出された、この街のシンボル。
焦げ茶色の煉瓦で造られた建造物からは、
大正デモクラシーの華やかさと自由と共に、
歴史を乗り切った、重みと、包容力を感じる。
私の胸は、小さく、そして確実に踊る。
新鮮な空気を思いっきり吸い込んだ。
もう1度、思いっ切り吸い込んだ。
生命の有難みを、受け止めた。
時より、頬に囁く微風が心地良い。
私は、洗い立ての白いTシャツを着ている
少年の様に、力強く腕を振り、
誰にも邪魔されない独占心に
酔っていた。
水道道の間から、駒沢給水場の塔が見えて来る。
あの角を左へ曲がれば、真横に塔と生体出来る
空き地があるはずだ。
想像は理想の中心部にあり、夢よりも程よく
画を色漬ける。
左へ曲がる。そこには、突然全体像を
さらした給水場が、立ちはだかる。
空き地を間に、緑道から触れたかった
理想と生体している。
このまま、このまま、もう少しいたい…。
と、緑道の向こう側から、おじさんが歩いて来る。
ゆっくりではあるが、こちらへ向かう視線が
ゆるぎない意志を示す。
おじさんは、茶色のくたびれたジャンバーを
羽織り、片手をポケットに突っ込み、
背を丸めつつ、片手を口元へと前後させていた。
「…..歩きタバコだ!」
この人と、すれ違いたくない。
理想をどうか壊さないでくれと、願えど、
その歩は、煙を連れてやって来る。
見ないように仕様。
今この爽やかなる気持ちを許してほしい。
コンクリートに汚された私は今、解放されているんだ。
だから….来ないでくれ。
しかし、その歩は止まる事を知らない。
私は、緑道に張り付くように立っている。
動きたくない?….いや、動けない。
そして、スローモーションの様に、
すれ違って…しまう。
身体の向きを一瞬逆方向に逃れるように試みたが、
駄目だ!駄目だった。
タバコの煙が、この早朝のひとコマ、
ひとコマを潰し、確実に、煙風味に
染めてしまった!
振り返りはしないが、その歩は同じリズムで遠ざかり、
向こうへ、向こうへと直進していった。
新緑の香りも、爽やかなる空気をも、
私の心まで、タバコの煙が、殺した。
「汚すんじゃなぇ」って、全身で舌打ちするも、
嫌悪感は増殖すれど、怒りをぶつける的も無い。
買ったばかりの白のレースに、こぼれた醤油が滲むように。
ピザに大量に垂らしてしまったタバスコのように。
不条理な法破りの1mmは、かけがえのない
花をも摘むんだ。そして、枯らすんだ。
5時半。切ない色を滲ませたブルースが、
場末のスナックから泣けてくるように、
ひきずるような重き足取りで、
朝のひと時を終えた…。