矢沢永吉 止まらないHa~Ha(東京ドーム1988年)

■「矢沢永吉/止まらないHa~Ha(東京ドーム)」

乗ってくれ Ha~Ha 
「がぁ~~~~。なんじゃ、なんじゃ、なんじゃ!!
これは、なんじゃーーーーーー」
東京ドームの客席の上を、はしご車に乗った矢沢永吉が
狂い叫び客をあおる! 燃える客!
画面を突き破りそうな、矢沢永吉!!!
「永ちゃん、永ちゃん、永ちゃん!!」
TVの前で、拳を振る俺達!
(1989年春…15歳)

■「14歳~15歳/矢沢永吉以前」

14歳…何もやる気が起きなかった。
夢もなく、追いかけるものもなく。
中3…授業もさぼりがち。
数年前の事故から使用禁止になっていた
オンボロプールの事務室に、
荷物持ち込み、友達とたむろっていた。
ただ、何をやってもイライラが同居。
何かある度、振り回したコーラの如く、
暴発していた。

■「工業高校入学/ヤンキー社会」

もう、どうでもよくなり、家からチャリで5分の
工業高校に通う。
ところが、待ち構えていたのは、超封建縦社会。
当時この工業高校は、全24クラス中95%男子。
勤勉な生徒数%、運動選手数名、オタク数%?
ほぼボンタン、短ラン、リーゼントのヤンキー社会。
「お前か、岸って!」
動物園の檻の外から眺める様に、暇潰しの縦の圧力が
休み時間のたび訪れる。
メンチ切られたから切り返し、呼び出し?待ち伏せ?
学校隣の上杉神社の裏で、ビーバップハイスクールの様に
20人くらいの先輩方にフクロにされる。
でも、唇切っても謝れないワケ。悪くないから。
殴られたから殴り倒したワケ。猪木で育ったから。

まぁ~、そんなこんなしている内、こっちまで
ヤンキー社会の浅瀬にハマり、勝手に株が上がり出す。
いつしかこの動物園も、なんの圧を感じない
居心地の良い空間になっていた。

■「矢沢永吉/東京ドームLIVEを見る!」

朝起きて一服。登校しながら一服。
休憩時間も一服。昼飯より一服。
部活はやらず一服。
友人宅で一服….。
そんな時、友達が「矢沢永吉の凄さを語る」
「広島から一人で出てきて、横浜でバンド組み、
成り上がり、アメリカにも進出し、
矢沢永吉は世界のYAZAWAになった…」と。
そして、あの東京ドームも、超満員にしたと…。

自分も音楽的には矢沢永吉の良さを理解
していたつもりだったが、TV含め、当時はほぼ
露出のなかった矢沢永吉。
興味って奴は、時間が経てば経つほど、
味を増すチューインガム。
居ても立っても居られず、次の日、
その友人宅で「矢沢永吉/東京ドームLIVE」(ビデオ)
を見せてもらう。

「がぁ~~~~、なんじゃ、なんじゃ、なんじゃ!!
これは、なんじゃーーーーーー」
LIVEアンコールでは、東京ドームの客席の上を、
はしご車に乗った矢沢永吉が狂い叫び客をあおる。
燃える客!!画面突き破りそうな、矢沢永吉!
「永ちゃん、永ちゃん、永ちゃん!!」
TVの前で、拳を振る俺達!
心臓がバクバクする。
こっちまで、こっちまでシャウトしちまったぁ。
でも、叫ぶって、なんでこんなに気持ちイイんだ。
熱いって奴か?これが。熱いって奴かぁ?

正に、衝撃だった。衝撃通り越して、
頭が狂いそうだ。
俺は確実に、永ちゃんに殴られた!
心を殴られた。魂に、火を点けられた。
…何かしなきゃ!…BIGになりたい!
…永ちゃんみたいになりてぇ~!
それまで、何処かクールだった自分が
フルモデル・チェンジした瞬間でもあった。
矢沢永吉以後…思春期の薄暗い部屋から、
反逆児と呼ばれど、自分なりの表舞台を
歩き出す。

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あの頃のショット。

剥きだしの俺達がそこにいた。
夢も具体的な物も何もないのに、
明日へ這い上がろうとしていた。
何か、本気出せば、時代を変えられるんじゃ
ないかって、井の中の蛙だけど、
うぬぼれていた。

今一度、俺に伝えたい。
あの火を。あの炎を、あの熱を。

俺は今、新たなチャレンジに向かい2年4か月。
次への最終階段を昇っている。
大丈夫。大丈夫だ。
俺は、何度も熱く闘ってきたはずだ。
地獄絵巻の様な港湾労働、階段ダッシュの引越業、
ゴンドラ30階での建築作業、
ステージで這いつくばり叫んだR&R。

草の根かき分けて!両手を太陽に思いっきり伸ばし、
この東京の町で、岸哲蔵の第2弾を放つ。
矢沢永吉さん、有難う。
貴方は、俺の生ける聖書(バイブル)です。