■岸哲蔵リアル・ストーリー「工場街で育った少年時代」
自分が生まれ育った町は 「米沢牛」で有名な、
山形県米沢市。
米沢は東西南北を山に囲まれた「盆地」で、
自然も豊かな、のどかな町です。
自分の生まれた地域は 市の中心地です。
この地域は、70~90年前半「中央商店街」を中心に
大変な賑わいで、80年に「アーケード」が完成し、
デパートが3つ並ぶ大激戦区。
夕方になれば、アーケード街は、買い物客で賑わい、
道狭しと、両サイドには自転車が、びっしり止められます。
僕の子供時代は、その人混みに紛れながらも、
活気ある町に誇りをもち、下校したものです。
今は、景気悪化と町の分散。
そして、全国チェーンの進出、乱立で….残念ですが
シャッターを閉めたお店も多く、寂しいばかりです。
…自分は「商店街」の子ではなく、住宅街育ちでもなく、
緑の多い地域育ちでもなく、「工場街」の中で育ちました。
この工場街の会社が、倒産し、今はもう何もありませんが、
僕の「DNA」には、しっかりと刻まれております。
そこは、大通りから1本中に入ると、ほぼ1ブロックが、
親父が働き、祖父の経営する醤油と味噌の会社でした。
北海道の小樽や函館や樺太でも商売していた曽祖父(初代)の発案のもと、
本工場の建物は、暑さを和らげ、寒さから護る「レンガ造り」
(この函館のレンガ倉庫が、イメージだと思う。)
この「赤茶色のレンガ」(醤油、味噌造り)をすり抜け、
ボイラー室、木造のタル工場、
倉庫、燃料タンク、分析室、休憩所、
新工場(醤油のオートメーションによる製造所)を通り、
家に帰ってました。
工場では、皆さん汗水かいて、もろ味で汚れながらも、
一生懸命作業されてました。
工場のおっちゃん達は野球が大好きで、よく休憩時間キャッチボールしてたなぁ~。
僕が生まれた頃はまだ、野球部があったそうです。
今は、だいぶ細くなった親父ですが、
この頃はガタイがよく、グローブのような手。
その理由は、自分が中学生になり、
時々、工場を手伝うようになり解りました。
醤油の一升瓶は、1.8リットルなのですが、塩分が含まれている分、
お酒より重く、どっしりきます。
その一升瓶を10本1セットで木箱に入れるのですが、
昔の木箱は重く、湿気も含んでいて、
合計25キロ近い重量。
親父達は、配達の時、この醤油入りの木箱を肩で担ぎ、
トラックに積み込みます。
あの頃の僕もやりましたが、やっと….きつかった!!
従業員は、僕の子供時代だと、もう景気が悪化し縮小。
30人位でしたが、
オートメーションの大きい工場もあってか、
月に1度、10トンのタンクロータリーが来るのです。
夕方、僕らが、工場街のあぜ道で遊んでいると、
工場のおっちゃんが来て、
「今、大きいトラックくっから、あっちで遊んでなぁ。」
そう言われると、逆に興味が沸き、
僕らは、塀の陰から覗く….のです。
と、
くわえタバコした、西部警察の犯人役のようなおっちゃんが、
バックミラーを確認しつつ、
器用に狭い道をバックで、しかも切り返しながら入ってくるのです。
(こういう感じの…)
タンクに横づけすると、馴れた手つきでぶっといパイプを結合し、
「ジャー」と、凄みをきかせ吐き出すタンクロータリー。
車の後ろには「火気厳禁」の如く、西部警察の犯人役のようなおっちゃんは、
吸いたいタバコ?を我慢しつつ、
にちゃにちゃガムをかみながらメーターを睨みつけます。
ナンバープレートは、いつも他県ナンバーで、釧路、宮城、袖ヶ浦、
….久留米ナンバーも観たことあります。
(ここは、山形だよ!)
作業が終わると、塀の陰にかくれてる僕らに「近づくなよ~」と
面倒臭そうに低い声を投げつけ、タバコに火をつけると、
怒涛の如く、去って行くのでした。
みんなでタンクの周りに行くと、まだ、油(C重油)の匂いがして、
水たまりには、分離した油が浮いていて…草っ葉で突っついてみたり…
この経緯もあり、夕ご飯前の犬散歩では、
うちのワンコは色々舐めるクセがあったから、
タンク周辺はさけてました。
….実は、もう1台、10トンのタンクロータリーサイズの
トラックが来てました。
この大型トラックの荷台には、大きなタンクがいくつか積んであり、
パイプで醤油タンクとを結合すると、一気に吸い上げていくのです。
この会社は、全国的に相当有名な会社。
親父の話だと、うちの醤油の配達だけじゃ製造に追いつかず、
この方式で、自ら、持っていくようになったそうです。
…まぁ~、こういった有名な大手が大量注文してくるという事は、
今思えば、危険!!
一気に、一気に値段を上から目線で、たたきにきますから!
食料品なのに、作業運搬法も「愛」がなく、
なんだか身勝手な感じもして、嫌でしたね。
…正直、景気悪い企業や、弱小を子分化し、底の底まで吸い取るような
怖さを感じます。
だから、僕は、あの会社で作られたお菓子は、一切口にしません。
…80年後半に入ると、バブルなのに、どんどんどんどん大手に食われて、
最盛期5つあった支社も、失い、
すかすかになる工場が出てきました。
高校生の馬鹿なオレは、マイクやドラム、スピーカーを持ち込み、
バンド練習。
近所のおばちゃんが、怒鳴り込んできたなぁ~。
そして、
兄貴が東京での学生生活の途中、僕が高3の時、
突然この工場街の主は、役員、株主、取引先、得意先にも
一切相談せず、いきなり会社を閉めた。
50歳間際に、突然職を失った人、その肩にのりかかる家族、ローン。
御得意様や商店、お客様へも葉書1枚での、報告。
時代は一気に影も形を失くし、
倒産から2~3年で、この工場街は…消えました。
結果は、仕方ないのです。
大切な事は、結果について、向き合い話し合い、
答えを共有する事。
地方紙朝刊にもデカデカと掲載されて….
この時の悔しさは、一生忘れないし、今も、背負っています。
僕が、弾き語り時代から、 「赤茶色のレンガ」を歌い続ける理由は、
そこにあります。
….過去を悔やみ、今、より良い未来を築く為、
より歌声に磨きをかけ、あの日の工場街の方々の思いも背負い歌います。
忘れちゃいけない汗がある。
忘れちゃいけない思い、景色、声を…メロディに!!
魂の底から、心を込めて。