幼少期/理想の住まい

■「幼少期/理想の住まい」

幼少期、住まいについての理想という発想は、
持ちませんでしたが、振り返れば、
幼少期、私は、3軒の家で生活をしていました。

「1軒目」
私の人生の始まりは、2LDKのアパート。
これは、両親が結婚時建てた物件で、
住みながらアパート経営するスタイル。
その名も「岸アパート」
住居は1階、小さい庭に、これまた
小さい池があり、そこで亀を飼ってました。
それから間もなく、相棒の柴犬ポリーも、
子犬でやってきます。
アパートの住民ともアットな関係で、
とても可愛がって貰いました。
また酒癖の悪い住民と母が怒鳴り合ったり、
その人が酔っ払い運転で、車を逆さまに
していたり、なかなかな物語も生鑑賞。

「2軒目」
幼稚園入園した次の年に、両親が家を建てます。
7DKの平屋で庭木に囲まれ、広い庭、敷地600坪。
両親は「一軒家という物への憧れが強く」
特に母の本当の構想は壮大。
人工の山を造り、山の上に子供部屋を建て
山の下に平屋を建てる計画だったのです。
しかし、山を造るだけで3年かかり断念。
父は父で、終始、中庭に池を作り
たがってました。
70年代の大工さんは腕利き。
柱から土台からカンナ削り。
43年経った今でも、健在。
特に、客間の2室は、宮大工が造った物で、
見る人が見れば解る造りです。
ただ、新築を建てすぐ、母の腰痛が悪化。
ある極寒の夜、激痛に襲われ、
とうとう動けなくなり119番。
救急車は大雪で敷地まで辿り着けず、
母は、担架で担がれて行き、
長期入院。
兄は小学1年で学校があり、
父と兄だけ家に残り、私だけ、
母の実家で生活する事になります。

「3軒目」
母の実家は2階建ての木造建築。
昭和35年頃中古で買った家で、
前の住民とも、短期間共同生活しますが、
この相手が、後にあの「デンソー」
の社長になった方という、運気の強い家。
祖父は私が産まれる前に亡くなり、
当時は、祖母と叔母2人が同居。
祖父の仏壇と母の兄弟で幼くして
亡くなった二人に、水をあげてから
1日が始まります。
祖母は、縁側にパンダの様に座り、
黙々とみんなの為に作業するのが
好きな人でした。
現代のお年寄りと違い、孫を猫可愛がり
しませんが、味噌汁の出汁をとる為、
煮干しの腸を手でちぎり保存。
自然な深みの旨味と同時に、
真心の様な物をババは教えてくれました。
叔母は個人で服飾の仕事をしており、
ミシンで作業。午後になると、
近所の茶飲み友達が遊びに来て、
長いお茶になります….。
ここの間に、茶坊主のように、
ちょこんと座り、大人のああでもない、
こうでもない話を聞きながら、
3時のあなたを観てました。
また、叔母が遅寝遅起きの為、
私も自然に夜型の子供に。
もう一人の叔母は電電公社に勤め、
同じ時間に家を出て、同じ時間帰宅、
同じ時間就寝。時計の様な人でした。
幼稚園の高学年に、実家に戻り、
家族の生活が再開します。

今、こうして東京で賃貸で生活
していると、所有物件を持つ
壁の高さを感じます。
田舎とはいえ、30代で家を建て、
合計3棟のアパートを建て経営。
中古アパートも1棟買い、
過去には東京でも1棟アパートを所有。
到底、今の自分では追いつけない。
今は、これを書きながら、
理想と構想の大切さを痛感しておる
次第です。