ボランティア最終日の7月24日は、石巻市の隣にある、女川町も視察。
ここ女川町も石巻市と同じく、漁業の町。
中でも、サンマの水揚げ日本一。
女川へ向かう道の隣には石巻線が走る。
その線路の向こう側には、青々とした雄大なる太平洋が…
震災で機能をなくした石巻線だが、
車と並走している姿を、つい思い浮かべてしまう。
■女川町視察
(本来、予定外でしたが、案内人からの提案で)
車は森と海の間を潜り抜け、女川町の高台に着く…と、
今まで、人生で観た事のない尋常じゃない光景を目の当たりにする。
(海岸から500m離れたこのビル。5階まで津波が。)
その手前のコンクリートの建物は、
(基礎からひっくり返り、逆さまに。)
(支柱から抜け、倒壊した交番署。)
車は森と海の間を潜り抜け、女川町の高台に着く…と、
今まで、人生で観た事のない尋常じゃない光景を目の当たりにする。
(海岸から500m離れたこのビル。5階まで津波が。)
その手前のコンクリートの建物は、
(基礎からひっくり返り、逆さまに。)
(支柱から抜け、倒壊した交番署。)
(フェンスが、スクリューに巻き込まれたように。)
そして、この町の一番の丘の上に位置する病院。
ここは、海から直線500mほどですが、
1階部分まで、津波が押し寄せたそうです。
(みんな、この坂道を登った。)
(女川駅。 ホームごと、流されている。)
更に、海から2キロほど離れている、このマンション。
別の波と別の波が重なり合い、更に勢いを増し、加速し、
丘をも越えて、このマンション4階まで津波がきました!
案内なさって下さった方の話だと、町が「ダム」のようになったそうだ。
■銀行
辛い話があって、女川の銀行は、津波で全員亡くなられたそうだ。
地震が14時46分。 15時に業務を閉め、平常通り。
悔やまれます。
■案内人より
こういった写真や、聞いた事、観た事、感じた事を、
どんどん伝えてほしいと、言われました。
何年後でも、津波や地震の怖さを伝える為にも、御願いしますと。
地震が14時46分。 15時に業務を閉め、平常通り。
悔やまれます。
■案内人より
こういった写真や、聞いた事、観た事、感じた事を、
どんどん伝えてほしいと、言われました。
何年後でも、津波や地震の怖さを伝える為にも、御願いしますと。
どんどん伝えてほしいと、言われました。
何年後でも、津波や地震の怖さを伝える為にも、御願いしますと。
あまりにも厳しい現実に、目をそむけたくなる気持ちも解ります。
が、敢えて、敢えて観て、読んで、感じてほしいのです。
地震国、火山国、海に囲まれた日本では、「天災」はありうるのです。
その時、どうすれば良いのか?
普段、どうしておけばいいのか?
シュミレーション有り、無しでは、対応が変わります。
■ある大学生の話
このボランティアを終え東京に戻り、現場である大学生と一緒に
なりました。
なりました。
なかなか志のある青年で、早くオーストラリアに語学留学したいと。
そして、厳しさの中、色々感じたいとも、話してました。
とても素晴らしい事です。
向上心や夢を実現したいという彼の思いは素晴らしい。
だから敢えて、
「震災ボランティアは行ったの?」 と、尋ねてみました。
と….学生は、
「いやぁー、関係ないっすから。東北のことだし…。
あと、ただじゃ、行きたくないですよねぇ…やっぱり!
可哀想だとは思うし、多少の寄付金は出すけど、
正直関わりたくないですねぇ!」
… 俺は何も言わなかった。
ただ、俺は、タイミングがあえば、いつでも行きたい。
考える前に、感じたまま、動きたい! 4日間の、震災ボランティアで感じた事。
■最後に…
6月の3日間の石巻市での活動は、炊きだしと物資配付、石巻市視察。
7月の4日間は、
ヘドロかき、物資配達、聞き取り調査、石巻と女川の視察でした。
参加者も増え、移動も窮屈なワゴン車から大型バスでの移動。
何より、大崎市に大農家の協力者を得て、
車中泊から、普通の寝泊まりになり、 身体が休まりました。
企画者及び参加させました皆様の思い、汗、これは永遠に続く絆。
もうあれから、3年9ヶ月。
何かあったら助け合うという人間本来の道徳心に沿い、
まっとうな人間になりたいと思います。
さぁ~、本当の意味での「復興」へと辿り着き、次なる夢を、
皆さんで築きあげましょう!!