「赤信号、みんなで渡れば怖くない」…ビートたけし

■「赤信号、みんなで渡れば恐くない」

…当時、小学校1年生だった僕は、テレビの前で、ただただ爆笑していた。
そして、その後ろで、両親も「なるほど!」と、手を叩く。

この名言は、1980年。
ツービートで活躍していた、ビートたけしさん発信!
ツービート
(つっこみ&脚本 たけし)

…小学校の下校時、いつも10人くらいで、
ああだこうだ言いながらの帰り道、
交通量少ない信号機来ると、誰かが必ず言いだした…

「赤信号、みんなで渡れば恐くない!!」
そして、みんなで赤信号渡ったもんだ。

で、
いつからか、白黒つけたがる、PTA発信で、
この言葉が、全国的に問題になったっけ…

まぁ、それはさておき、
ビートたけしの着眼点は凄い!

人の心理を「知的」に「本能的」に、突き抉り、笑いに変える!

社会という枠組みの中、線引きされたルールの中、
人間の感覚的な物見いを説いてくる。
タケちゃんマン

★「赤信号、みんなで渡れば恐くない」ビートたけしのプロフィール

~下積みの浅草修業時代までの略歴~

ビートたけしこと、北野武。
戦後直後の1947年、東京都足立区(梅島)出身。

親父は塗装工で、おばあちゃんは女義太夫。
そして、母は、この頃にしては珍しい教育ママ。

酒癖の悪い親父が家で暴れても、
電灯の光る電信柱に子供達を連れていき、
寒い日は、毛布で温めてあげながら、
必死に勉強を叩きこむ。

貧困を超えるのは「学歴」しかない!
の信念を曲げず、
兄弟は、それぞれ一流大学へ入学。

たけし自身も勉強が得意で、明治大学工学部入学。
理系は、将来つぶしが利くという、母の意見が通った形らしい)

…時代は60年代…
 団塊の世代で、周りは学生運動に明け暮る中、
 彼は小首をかしげ、ジャズに傾向する。

そして、口うるさい母から逃げるように家出し、大学を中退。
新宿のジャズ喫茶で働く。

このジャズ喫茶は人気店。早番を担当。
で、問題は遅番!
….この方は、この後、重大な事件を犯し、
日本中を騒がせる….。

その後、
タクシードライバー、実演販売、クラブのボーイ、解体工、
羽田空港の配送係りなどをしながら、フーテンを気取る。

この頃、アングラ芝居の構成も手がけるが、思うところあり、
26歳にして、「芸人」を目指す!

浅草のフランス座(ストリップ劇場)
エレベーターボーイをしながら、修業。
フランス座
(フランス座)

この頃、フランス座に出入りしていた本書きは、
井上ひさし(山形県川西町出身)
芸人は、コント55号(萩本欽一、坂上五郎)
コント55
東八郎、そして、相方のビートきよし(山形県新庄市出身)

実は、このフランス座には、野球チームがあり、都大会で優勝するほど。
一時期たけしも在籍。
で、ここの元エースが、
後に東映のエースになる土橋さん(元ヤクルト監督)

土橋は、浅草で魚屋をしながら、フランス座の野球部にいた。
で、キャッチャーが、なんと…井上ひさし!!
(浅草の最強バッテリー!)

で、
たけし以前に、ここのエレベーターボーイをしていたのが、
寅さん
寅さん(渥美清)

寅さんがエレベーターボーイの頃は、
近くのジーンズ屋さんで、高倉健さんが働いていたそうだ。

まさに、東京文化の中心が、日本文化の軸が
「浅草」だったわけだ。

略歴をざっと見ただけでも、
たけしの破れかぶれさが伝わるかと思う。

だからこそ、たけしのジョークには、
「建前と本音の中間をヒットしてくる力」がある。
人間の本性を暴いたから、成せる毒舌なのかもしれない 。

コント以外の演技でも、役者では出せない「リアル感」をだすが、
これもまた、実体験が活きているのでは?
と、思う。

映画「十階のモスキート」(主演 内田裕也)で、
競艇の予想やの役があったけど、
このたけしは、誰よりも、どのたけしよりも、
リアルに黒光りしていました。

…僕は、この時代に、何を歌声で表現出来るだろうか…
人様の心理を突けるだろうか…

お飾りのもと、作り笑顔をいくら並べても、
真実は得られない気がする。
いくら、誰よりも一生懸命汗を流し尽くしても、
それもまた、別角度なら、意味をなさない。

「お前は誰なんだ!」
「お前は何なんだ!」

自身の、心のルーツを追いかける旅は、もう少し続きそうだ。
いや…永遠の課題なのかもしれない。

ビートたけし
北野武
…彼は、 「人間心理のルーツを知る男!!」
より注目せねばぁ!
あっぱれ!!