■毛利元就とは…
戦国時代の安芸(現在の広島県西部)の領主、戦国大名。織田信長も徳川家康も恐れた武将で、用意周到かつ合理的策で、「戦国最高の知将」と評される。後に、その子孫達が、長州藩の藩主に。
毛利元就の残した有名な言葉は「三子教訓状」…三人の息子を集め、矢を両手で持ち「一本の矢では簡単に折れるが、三本一つに束ねると…強くて、折れない。三人で力を合わせ、毛利家を守れ」…と、説いた(三本の矢の教え…とも言う)
■毛利元就の血を引く吉川晃司
毛利元就には3人の息子(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景)がいますが、吉川晃司さんは毛利元就の次男「吉川元春」の子孫であたります。
また、「水球の日本代表」でありながら音楽に目覚めたのは「佐野元春」さんのコンサートを観て。
血も音楽も「元春…」の流れなのであります。
因みに、毛利元就の三男小早川隆景の子孫には、広島カープの元4番打者「小早川毅彦」
■吉川晃司「ワタナベプロダクション」に入った方法!!
1965年広島県安芸郡出身。名門、修道中学に入学、水球を始める。修道高校1~2年と連続「全国高校MVP」選出。 バンド活動と並行しながら、15歳で最年少全日本チーム入り。「ロサンゼルス五輪代表候補」に。
しかし、「マイナーな水球では有名になれない」と、突然水球を辞めバンド活動に専念。また、慶應大学の推薦も決まりながら、高校3年で中退する。
が、ライブハウスでやっていてもスターになれないと、「広島に天才がいる。見にこないと損をする。 ギターはCharより上手い!!」と、ワタナベプロダクションに手紙を送る。
事務所のスタッフが、四国でたまたま予定があり(松本明子をスカウトする為)帰り道、広島により吉川晃司のライブを見る。 これがきっかけとなり、上京が決まる。
上京前、広島でのラストコンサートを開くと800人収容のホールに立ち見が出るほど…
ワタナベプロダクションは、「10年に1人の逸材」と早速「吉川晃司プロジェクトチーム」を作り、1984年シングル「モニカ」主演映画「すかんぴんウォーク」で、一気にスターダムにのし上がる!!
■「毛利元就の血を引く吉川晃司」~まとめ~
畑違えど、一つの成功例を持つ人間は努力の仕方や物事の構図や組み立てが抜群で、別世界でも成功する方が多い。吉川晃司は更に、水球での闘いを通し、筋力だけじゃなく「かけ引き」や「勝つ術」を17歳にして身につけていた!
また、毛利元就の血を引くという事でのプライドと、それに対する不安とコンプレックスとが、吉川晃司のバイタリティーへと繋がっているのでは…。
若かりし頃の、ワタナベプロへの手紙については「嘘も方便!!あの頃は、何よりも繋がる事が大切だった。だって、待ってちゃチャンスはこない!!」…水球の得点王、吉川晃司のハートからの瞬発力と馬力を、物凄く感じる。
「吉川晃司骨折」~吉川晃司伝説1→https://tetuzou-kisi.com/?p=1869
「吉川晃司 バイク 水球」~吉川晃司伝説2→https://tetuzou-kisi.com/?p=2021