■石原裕次郎渡哲也 同じ誕生日
12月28日
…昨日は「昭和の大スター」石原裕次郎さんと、
その石原裕次郎さんを支え、石原プロモーションを引き継いだ
渡哲也さんの誕生日です。
■石原裕次郎プロフィール
1934年 兵庫県神戸市出身。
父の仕事の関係で、北海道小樽市、神奈川県逗子市で過ごす。
1956年、兄の石原慎太郎(元東京都知事)の小説
「太陽の果実」の出演し、
一躍大スターに。日本映画を牽引する。
日活を退社し、石原プロモーション設立。
TVドラマに進出。「太陽にほえろ」「西部警察」とヒットさせる。
1987年7月17日 病気のため、死去。まだ、52歳であった。
■渡哲也プロフィール
1941年 島根県出身。 兵庫県淡路島で育つ。
1963年日活入社。
1972年、にっかつがロマンポルノに移行するため退社。
石原プロモーション入り。
「西部警察」での、アクションものから「秀吉」の織田信長役まで幅広く
役をこなす。
1987年、石原裕次郎死去に伴い、2代目社長になる(~2011年)
■石原裕次郎渡哲也…出会い…
渡哲也が日活入社の際、撮影所を挨拶まわりをしていたが、
殆どの先輩方は、適当な相槌や無視…
が、
当時NO.1の大スターである石原裕次郎は、食事の手をとめ、
立ち上がり
「石原裕次郎です。貴方が、渡哲也さんですか。頑張って下さいね。」
と、握手。
これ以来、映画だけだはなく、プライベートまで仲良くなる。
そんな中、石原裕次郎は独立。
しかし、映画製作で6億円もの借金を抱え、会社解散の危機にみまわれる。
渡哲也は「お茶代に使って下さい」と、
全財産(180万円→当時のサラリーマン年収4年分)を裕次郎へ。
が、裕次郎は断わるが、より、絆は深まる。
■渡哲也 石原裕次郎への不満あるも…
「新しい映画を創る」という決意のもと歩みだした石原プロモーションだが、
時代もあり、TVドラマ制作を重視。
「太陽にほえろ」「大都会」と、刑事ドラマを次々ヒットさせる。
そして、極めつけは「西部警察」
毎週放送のドラマにも関わらず、ハリウッド映画のように、
銀座のど真ん中を貸切、戦車を走らせたり、
爆薬を使い、工場や船まで爆破したり、
ド派手な銃撃戦、カーアクションと、高視聴率をマークし続ける。
角刈りにサングラス姿の大門圭介(渡)は、少年達のヒーロー。
が、俳優 渡哲也にとっては、不満だらけだった。
そう、当初の「新しい映画」を創るため、石原プロモーションに入ったのに、
来る日も来る日も、オモチャのピストルで撃ち合い。
一番嫌だったのは、ドラマのリハーサル。
ピストルをリハーサルで撃つと火薬が勿体ないので、
実は、自分で「バンバンバン」と言いながら、行うそうだ。
が、野外のロケだと、大勢の見物人の中で、これを行う。
それが恥ずかしくて恥ずかしくて、仕方なかったそうだ。
そして、1984年10月….一時代を築いた西部警察にも、
最終回がおとずれる。
この最後のシーンでは、団長こと大門が凶弾に倒れる。
そして、最後に、大門の上司 小暮(石原)が涙を流し、
語る。
「俺はなぁ、あんたが弟みたいに、好きだった…ありがとう。ありがとう….」
そして、台本にはない、
「…疲れた…だろう…」
と、語りかける。
この時、渡哲也の不満は、全てぶっ飛んだそうだ。
石原裕次郎は、スケールのどでかい漢である。
■「石原裕次郎渡哲也」まとめ
昭和というひとつの時代が終わり、平成も26年の時を終えようと
している。
それでも、石原裕次郎の伝説は生き続け、渡哲也との絆もまた、
こうして生きている。
本物は、肉体を失くしても、魂が言霊や風味を奏でて、
僕らのシワを重ねたハートに憂いをくれる。
実は、僕の家は、石原裕次郎さんの自宅から徒歩10分ちょっと。
時々、勝手ながらご自宅前で、そっと立ち止まり、手を合わせています。
年内に、もう1度、裕次郎さんのオーラを頂きに…行かねば。