小学校/理想の食生活(前)

■「理想の食生活/ビフテキ」
ビーフステーキ(ビフテキ)
この存在を知ったのはプロレス図鑑。
本の中では、レスラーのプロフィールと共に、
好きな食べ物が紹介されていたが、
殆どのレスラーがビフテキと記載。
私は、ビフテキをガンガン食べ、
身体を鍛えれば、レスラーになれると解釈。
普段は、我儘を言わなかったが
「ビフテキが食べたい」と母にお願いし、
小1、初めてビフテキが夕食に並ぶ事に。

仕入れは、父。お得意様、野川商事にて
安くてぶ厚い牛肉を購入。
父は肉を筋切りし、器用に人参、
ジャガイモをシャトー切り。
それを下茹で、ナプキンの上で休ませる。
母は玉葱のスライスを切り終えると、
ホワイトソース作りに入る。
弱火でフレンチ用の鍋を温めバターを溶かす。
そこへ、牛乳を入れ小麦粉を焦げない様
混ぜ、とろみがついたら、塩少々、
冷やしたタオルの上で鍋ごと休ませる。
別鍋で玉葱スライスを炒め、ホワイトソース
を和え、ステーキソース完成。
次に、父がフライパンを温め、牛脂を溶かし、
塩とブラックペッパーをふった牛肉を敷く
様に置く。手の平の弾力になったとこで、
ひっくり返す。最後に、一気に強火にし
ウイスキーでフラッペ。炎が立ったら鍋蓋をし、
火を止め、冷えたタオルの上でフライパンごと
休ませる。 
ライスを平皿にそっと装い、
塩コショウブイヨンのみでつくった薄味の
野菜スープをテーブルへ運ぶ。
大皿に、メインのビフテキをのせ、
肉汁の残りにバターを入れ塩と
ブラックペッパーを軽くふった
シャトーも飾る。
緊張しながら、左手に持ったフォークで軽く
差しつつ、右手に持ったナイフで切る。
これを一気に口へ運ぶと、肉汁がジュワッ
と広がり、脂が甘味へと変わる。
「世の中に、こんなに上手いモノがあるんだ!」
と思った。美味すぎて、肉だけを飲み込む
のが申し訳なくも思うほど。
ベランダからドアをポリー(愛犬)が叩く。
牛肉の風味に我慢出来なかったのだろう。
よだれを垂らしながら、肉の残骸にありつく
ポリー。勿体ないのか、半分は穴を掘り、
隠す有り様。これには、参った…。

それから、時々、肉好きでもあり、本音では
料理が大好きな父は、野川商事から
お肉を購入し、家族で牛を堪能する。
この体験があり、私は完全にビフテキの虜となった。

■「上野でステーキ」
小2前の春休み、母と兄と、母方の祖母(ばば)
で東京旅行。1981年(昭和56)まだ東北地方に
新幹線は走っておらず、米沢から東京(上野)
まで急行で4時間半。上野へ着くと、さすがに
お腹がすく。とはいえ、大都会は人、人、人。
ランチタイムという事もあり、何処も混んでいる。
仕方なく、大衆食堂へ。
ばばは東京や横浜、千葉にいる子供達や
孫達に会えるので、すこぶる機嫌が良く
「てづろ(哲朗)好きなモノ、何でも頼め」
と言う。メニュー表には「ステーキ」 
大都会東京でステーキが食べたく、
「ボク、ステーキ」と言ってしまう。
母が怖い顔をするが、引っ込みがつかない。
…ところが…この大衆食堂で出てきた
ステーキは、薄っぺら。ナイフで切るにも
ゴム草履の様な硬さ。噛めば、歯と歯の
間に肉が引っ掛かるわ、味はないわ…。
母が…だから言ったでしょ…という顔を
している。申し訳なく思いつつ、
怒られた犬の様な顔で、残す…。

■「米沢/学校の帰り道」
学校の帰り道「米一牛」というお店があった。
(現在/米沢市鍛冶町)ここのご主人は、店先の
ガラス張りの厨房で、牛を見事に捌いてみせる。
ランドセルを背負ったまま、僕達はいつも、
この光景を目にしていた。
米沢と言えば米沢牛。
町のあちこちに米沢牛の昇りが立つ。
自然に牛肉への関心は高まり、
誇りとなった。
2010年発売したシングル「米沢牛」(岸哲蔵)
は、嘘偽りない、米沢牛への愛であり、
地元愛の結晶だ。